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尾州織物産地の歴史と年表
昭和より以前の歴史
(青色文字は文末「用語」説明あり)
1.古い時代から明治までの尾張地域の織物など
(1)麻織物
弥生式遺跡から発見された土器の底面につけられた布の痕跡、1200年~1300年前とされる現存する最古の布片や国分寺の古瓦に残る痕跡などから麻織物がこの地方で作られていたようである。そして、室町時代には「尾張細美(さいみ)」と呼ばれて極めて細く紡いで織った麻布を生産していたようだ。
(2)絹織物
正倉院に現存する尾張国正税帳(天平6年(西暦734年))によれば、当時既に綾及び錦などを盛んに織らしていた。そして、江戸・元禄期に「春雨や桑の香に酔う美濃尾張」(其角)という句があり、対岸の羽島市から尾西市起町・木曽川町付近一帯に桑が栽培され、いわゆる起絹(尾西市)、割田絹(木曽川町)などが盛んに織り出されていたことが知られる。
(3)綿織物
綿栽培は西暦1540年代琉球から薩摩を経て、内地に伝わり、江戸時代には盛んになった。このように、戦国時代以来、木綿は実用向きとして絹布を凌ぎ、その栽培が進み、江戸・藩政時代の尾張平野はすべて麦作の後に生綿(きわた)を作るので、秋祭りの頃は見渡す限り綿の白で溢れ、住家と納屋も生綿の山となった。
旧盆が終われば綿や糸の小買商人が2~3人づつ組んで一宮から四方へ買い出しに出かける。夕暮れ時に山のように荷物を持って四方から一宮へ帰る商いの様子が、ちょうど同じ黄昏時に真清田(神社)の森に鴉の群が帰るのに似ていることから、綿買いの人々に対して「一宮カラス」という綽名がつけられ、一宮商人の代名詞ともなり、一宮人の生活力の旺盛さを表すと同時に、一宮商人の商取引における厳しさを表現するものともなった。
1844年には、一宮の棉問屋29軒、幕末には50~60店に及んだ。こうして買い集められた綿はすべて繰綿にして名古屋や他国へ移出されていた。
一方、綿織物の中で、貴族的な染模様に対して、極めて大衆的で、着破るまで褪色しない縞織物は藩政時代に入って一般民衆に喜ばれ、ついにその平常着となった。
1842年の尾張国産品のうち織物類に桟留縞(さんとめじま)、結城縞、繰綿、蛹糸(さなぎいと)、絹、かぴ丹、糸類、羽二重が挙げられていて、既に相当これらのものも生産されていたことがわかる。
2.明治以降の尾張地域の織物
(1)絹綿織物と綿織物
明治維新以降も結城縞、桟留縞の類を盛んに織りだしたが、明治4年に絹絣を織りだし、明治5年(1872)洋糸を正藍で染め、経を双子として緯に単糸を織り、双子縞または東京双子と呼んで売り出したが、明治15~6年頃(1882)には当地方一帯を風靡し、年産額256万円と云われた。
明治13年(1880)頃より当地方一帯の同業者の研究発展は実に特筆すべきものがあり、まことに絹綿交織の全盛時代であった。そして、尾張の綿織物は、明治17年(1884)の生産量は大阪に次いで全国2位に位置していた。
明治24年(1891)10月28日の濃尾大震災は、綿花の栽培も困難になり、機業家ばかりでなく一般住民に致命的打撃を与え、建物機具などことごとくを損傷したので、この復旧には新規開業と同じような費用と労力が要った。一方で安価なインド綿花の輸入が始まり、大企業が安い綿布を大量生産し、市場進出した。これには農家の副業では対抗できなくなり、尾西地方の綿織物業は次第に衰微して30年頃にはどん底に落ちてしまった。
「なにか綿織物に代わるものを・・・・」 その模索の中で、時代の流れをいち早く読んで羊毛工業へ着目したのである。
(2) 毛織物並びに交織織物
明治25年(1892)頃、中島郡の筧直八が経綿糸の交織織物を製造、同郡の酒井理一郎・加藤平四郎は輸入毛糸で着尺セルを試織した。31年(1898)には海東郡津島町で片岡春吉がモスリン製造を試みた。しかし、これらはいずれも整理技術が未熟であったため商品化に至らなかった。
明治34年(1901)、片岡春吉はドイツ製セルを模してセルの製織に着手した。機械も技術もきわめて幼稚であったから、苦心の末、ともかくも製織に成功し、同年11月、第5回愛知県品評会に特性の小中柄着尺本セルを出品して銅賞牌を受賞した。
この成功を期にセルの製織がにわかに脚光を浴びたのであるが、致命的な欠陥は毛織物の染色・整理・仕上げがこの地方でできないということであった。片岡春吉は、自らドイツに染色整理機一式を四幅織機とともに注文してその研究と利用に当たり、さらに先覚的な二三の工場が自家用に毛織物用整理機を導入したが、専業工場がなかったため、片岡に続いて尺幅の純毛セルを製織した機業家らは京都西陣の整理工場で仕上げて市場に出していた。
愛知県立工業学校(県立愛知工業高等学校の前身)が明治34年(1901)に創立され、初代校長の柴田才一郎はヨーロッパ留学中にも毛織物を研究しており、その斬新な知識で機業家を熱心に啓発指導した。柴田はヨーロッパの新しい染色整理機を購入し、生徒の実習に使用するとともに、整理の手段を持たない企業家の依頼にも応じていた。従って、後に専業の整理業者が出現するまでは、この機械が尾州地方唯一の整理の担い手であった。綿織物の整理業者であった墨清太郎は毛織物整理をこころざし、愛知工業学校や京都の会社などを見学しながら、研究を重ねていた。毛織物への進出を始めていた機業家たちは専業整理業者の必要を痛感していたので、この際、墨を中心に銀行その他から1万円の融資を受けて整理工場建設に着手し、ドイツ製の整理機を据え付けて明治41年(1908)に開業した。これが毛整理業界の一大勢力となった艶金興業株式会社の始まりであり、「仕上げの尾州」としての地歩を築き上げる礎石となったのである。
また、明治45年(1912)一宮の木全角次郎はドイツに四幅織機5台を注文し、引き続き他の機業家も新しい機械を購入し、こうして、毛織物への生産体制はできあがっていった。
大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発すると毛織物の輸入は全く途絶え、一方で国産品愛用が唱えられ、国内生産に力を加えて、遂に全国的セルの特産地として名声を博することとなった。こうして、尾州地方の着尺セル生産は、僅か5年間で20倍に激増、全国生産の約70%を占めるに至った。
しかし、羊毛工業の製品がモスリン・着尺セルなど薄手の和服用毛織物を主力とする、いわば羊毛工業の日本的展開を行うようになると、その製織技術条件に在来の綿・絹織物との間に親近性を生じ、次第に綿・絹織物から毛織物への転換が行われることとなった。尾西を中心とする毛織物業も、もちろん転換への諸難問を克服しながらであるが、こうした在来の綿・絹織物業からの転化のうちに成立していったのである。
このように着尺セルで躍進した尾州産地は、大正中期以降、ラシャやセルジス(洋服用梳毛織物)の製織へも進出していった。
(3) 服地時代
毛織の洋服地はすべて英米ドイツから輸入され、大正初年に入って官公吏・学生・会社員・商店員を始め小学児童まで洋服化して、その需要量は激増したにもかかわらず、大正6、7年(1917,8)第一次世界大戦のため輸入が途絶え、在庫は底をつき服地業者が極度の窮地になった。平和になってもこれらの輸入の激増は国として経済上不利益であることから是非国産化の必要が迫られた。そして、四幅の織機の輸入は到底望み無く、導入のしやすい国産織機を希望する気運が高まってきた。そこで平岩、大隈など諸鉄工場は、この気運を察知し、ジョージホジソン式機を見本として、これに苦心改良を加え各自製作を試みたが、予想以上の好成績を得たので、当地の機業家などは大いに意を強くしてこれらの機械を据え付け、各服地生産設備に着手するものが続出した。
手頃な国産の四幅織機の開発により、尾州地方では紺サージの製織が盛んになった。大正末期からはラシャ類の製織も興隆、このころから同地方における毛織物業は綿・絹を圧して主流となった。大正末年における愛知県毛織物産額は、全国比着尺セルが97%、洋服地は66%を占めている。昭和に入って婦人子供服が普及すると、毛織物のウェイトがますます高まり、生産金額のみならず生産数量でもはるかに綿・絹を凌ぐに至った。
産地の構成員や織機も大きく変化した。着尺セル中心時代には農家の副業の賃織業者が多かったが、洋服地が盛んになると専業化してきた。また、四幅織機は大正12年(1923)の376台から昭和6年(1931)には3,868台と約10倍に増え、主力織機に占めるウェイトも5%余から30%余となった。さらにこの時代には、従来の手織機から力織機への近代化が行われた。全国の毛織機についてみると、大正3年(1914)と昭和6年(1931)の間に力織機は6,973台から21,791台と約3倍に増加した。
(4) 関連業界
1)撚糸業
幕末時代尾西地方には、綿屋、糸屋、藍玉屋、紺屋、綿打屋の他、高さ六尺近い竹車を剣撃のような姿勢で廻しているよりかけ屋(撚糸屋)が有った。それらがどの村にも数軒あって、かつ機音に混じって織子唄・機綜(はたへ)唄が聞かれた。
明治十二、三年(1879,80)頃、岐阜県羽島郡川島村地方に八丁式撚糸機が起こり大いに使われ、以来逐次改良され広く普及した。
撚糸工業が初めて機械化したのは大正2年(1913)で、布施式木製撚糸機にガス動力を応用し、同6年(1917)鉄製撚糸機を備え、以来盛況を見るに至った。これより先、大正3年(1914)第一次世界大戦勃発以来機業界が旺盛となり、撚糸業を始めるものが増加したので、この業界の改善統一を図ろうと、撚糸業組合が組織された。
2) 染色整理業
a) 染色
藩政時代から明治初年までは、当地方で生産される正藍をもとに、植物性染料の筋糸を用いてきた。明治10年頃(1877)になり唐紅、岩紫、藍鼠粉、青竹、紺粉のような塩基性染料が輸入されるようになった。明治12年(1879)頃外国藍が輸入され、ほとんど正藍染めを圧倒することになったが、明治18年(1885)7月染物組合が創立された。
明治23年(1890)頃より研究改良され、新たに輸入され始めた直接染料、硫化染料などの人造染料を使用するようになり、旧来の植物染料は全く使われなくなった。
明治31年(1898)一宮茶周染工場木村周吉は、綿糸のシルケット染めを創始し、明治32年(1890)蒸気機関を設置し、その規模を拡げ、更に一般染色業者はセルジスの製織に伴い毛糸染の染料薬品を研究し、技術も進歩するとともに設備も改善していった。日露戦争後にシルケット機が発明され、以来数多くの染色機械が発明制作されてきた。
大正9年(1920)茶周工場は毛糸の染色法を研究した結果、綛糸の機械染めを開始し、更にわが国最初のチーズコップ染めを始め、一層製品の声価を向上させた。以来、毛織物では整理と染色とは密接な関係にあるので、自然と整理工場では染色も兼営することとなった。
b) 整理
整理は古来、砧打ち(きぬたうち)に過ぎなかったが、安政2年(1855)葉栗郡玉ノ井村墨嘉右衛門が大阪で修行して、職工をつれて帰り、艶嘉と号して新たに艶屋である織物整理専門の新職業を始めて、以来これを見習うものが多くなった。
明治22年(1889)頃になって簡単なガス毛焼きが創始され、次いで大阪から手拭い用ロール機を購入し、双子縞、綿甲斐絹(かいき)等に光沢を付けた。こうして、従来の手工的作業から機械加工へ進展していった。
明治30年(1897)同業者を集め、尾張織物整理組合を組織し、専ら仕上げ方法の改良が研究された。
明治41年(1908)毛織物の整理は急迫し、苅安賀中野鶴次郎は自家製品整理のためドイツより整理機を購入し、同時に起町墨清太郎(艶金)は同地機業家の援助の下に英国及びドイツより艶出し、湯伸し、蒸絨、毛焼き等種々の機械を据え付け、着尺セルの整理を開始し、大正8年(1919)元ドイツ・ヴァイエル染料会社の技師で名古屋に捕虜として収容中の2名を招き、染色技術の指導を受け、更に大正12年(1923)弟墨眞一英国・ドイツ・フランスを回り、先進国の技術を会得し、ドイツ人染色技術師メッケル氏と数台の新機械とを入手して帰り、更に昭和11年(1936)4月渡欧後、理想的な製品を出し、多数の同業者が刺激を受け新機械を購入し、あらゆる設備を完備させた。こうして洗絨(せんじゅう)機、縮絨(しゅくじゅう)機、起毛機、剪毛(せんもう)機、ガス焼き機、蒸絨(じょうじゅう)機、艶出(つやだし)機、幅出(はばだし)機、乾燥機等あらゆる新機械を設備し、優良品を生産できるようになった。
(注)これ以降は、「年表」をご参照下さい。
古い時代から近代(大正時代)までの尾張地域の繊維産業について、次の文献等より引用並びに参考にしました。
参考文献
・「尾西織物史」
(昭和14年(1939)尾西織物協同組合刊(平成3年(1991)11月20日復刊)
・「片岡毛織創業九十年史」
(昭和63年(1988)2月片岡毛織(株)発行)
・「「墨敏夫-知と技の軌跡100年」
(平成元年(1989)10月艶金興業(株)発行)
・「毛織のメッカ尾州-尾西毛織工業90年のあゆみ-」
(平成4年(1992)3月尾西毛織工業協同組合発行)
・「日本毛織百年史」(平成9年(1997)6月日本毛織(株)発行)
用語説明(五十音順)
用語については、次の文献等より引用並びに参考にしました。
「染織辞典」
(中江克己編:昭和62年(1987)泰流社発行)